前回のブログにおいて十字軍とは、中世に西欧のカトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために派遣した遠征軍と記述しました。
それは正しくもあり誤りでもあるかもしれません。
以前第1回十字軍を
– 第1回十字軍(1096年~1099年):教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じた騎士や民衆が参加。イスラム勢力を撃退してエルサレム王国などの十字軍国家を建設した。唯一成功した十字軍とされる。
と記述しました。
年表としてはこれでよいかもしれませんが歴史を学ぶという意味では不十分です。
ここではその意味を解説していきます。
第一文節
教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じた騎士や民衆が参加。
まず教皇ウルバヌス2世についての説明が必要ですね。
ウルバヌス2世の出身地はフランスのシャンパーニュ地方のラジュリーという町です。彼はクリュニー修道院で修道士になり、後に教皇グレゴリウス7世の枢機卿となりました。
教皇ウルバヌス2世は、11世紀のローマ教皇で、教会改革の推進者として知られています。彼は教皇グレゴリウス7世のもとで教会の自己改革に尽力し、聖職売買の禁止や司祭の独身制の徹底などを主張しました。また、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争にも積極的に関わり、対立教皇クレメンス3世を廃して教皇権を強化しました。
叙任権闘争とは、11世紀から12世紀にかけて、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が、司教や修道院長などの聖職者を任命する権利(叙任権)をめぐって争った歴史的事件です。当時の神聖ローマ皇帝や諸侯は、自分たちに忠実な聖職者を選ぶことで、教会を支配しようとしていました。この闘争は、教会改革運動の一環として、1075年に教皇グレゴリウス7世が聖職売買や俗人による叙任を禁止したことに端を発しました。ハインリヒ4世は自分の権威を侵されたと感じ、1076年1月に独自の教会会議でグレゴリウス7世の廃位を宣言しました 。
ここに至って教皇グレゴリウス7世も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言しました 。
この破門宣言は、ドイツの諸侯たちにとって好機でした。彼らはかねてよりハインリヒ4世への不満や反発を抱いていました。彼らは破門された皇帝から離反し、1077年2月2日までに破門が解かれない場合にはアウクスブルクで会議を開いて新しいローマ王を決めることを決定しました。また、彼らは権威の付与者であり仲裁者でもある教皇を会議へ招聘しました
ハインリヒ4世は、破門の解除を求めて、グレゴリウス7世が滞在していたカノッサ城に赴きました。これが有名な「カノッサの屈辱」と呼ばれる出来事です。グレゴリウス7世はハインリヒ4世を赦しました。
しかし、この和解は長く続きませんでした。ハインリヒ4世は再び反撃し、対立教皇クレメンス3世を立てて、ローマに入城しました。グレゴリウス7世は破門されローマから追放され、1085年にイタリア南部のサレルノで死去しました。
グレゴリウス7世の後を継いだ教皇ウルバヌス2世は、彼の推し進めた教会改革の路線を忠実に踏襲しました。ウルバヌス2世は、ハインリヒ4世に対抗するために、トスカーナ女伯マティルダやバイエルン公子ヴェルフ5世の結婚を取り持ちました。また、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男コンラートの反乱を支援しました。さらに、フランス王フィリップ1世を離婚問題で破門しました。
※トスカーナ女伯マティルダやバイエルン公子ヴェルフ5世の結婚は、中世ヨーロッパの政治的な力関係に大きな影響を与えた出来事です。この結婚によって、トスカーナは神聖ローマ帝国の一部となり、教皇と皇帝の対立に巻き込まれることになりました。また、バイエルンはイタリア半島への進出を図り、ロンバルディア同盟と戦うことになりました。この結婚は、両者の利益を高めるだけでなく、ヨーロッパの歴史にも重要な役割を果たしました。
※ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男コンラートの反乱は、中世ヨーロッパの王権と教会権の対立を象徴する出来事でした。ハインリヒ4世は、教皇グレゴリウス7世と争っていた教会改革運動に反対し、教皇から破門されました。このため、彼の支持者は離れていき、彼の家族も彼に背きました。アーデルハイトは、夫の暴力や不貞に耐えかねて離婚を求め、コンラートは、父親の王位を奪おうとして反乱を起こしました。この反乱は、ハインリヒ4世の権威を揺るがせ、彼を苦しめましたが、最終的には失敗に終わりました。アーデルハイトは修道院に幽閉され、コンラートは死にました。この反乱は、王権と教会権の争いだけでなく、家族間の愛憎や忠誠や裏切りも含んでいた複雑な歴史的事実です。
ウルバヌス2世は、グレゴリウス7世の推し進めた教会改革の路線を忠実に踏襲する改革派教皇でした。
しかし、彼は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争や、ハインリヒ4世が立てた対立教皇クレメンス3世との対立によって、ローマに入ることができない苦境にありました。そこで、彼は東ローマ帝国からの援助要請を契機に、十字軍運動を呼びかけることで、教皇権の確立と拡大を目指し西欧キリスト教国の支持を得ようとしました。
教皇が二人いるなんて驚きですよね。しかも絶対的な権力を持たず苦境に立たされているとはのちの世の教皇を考えると想像もつきませんね。
教皇ウルバヌス2世のクレルモン教会会議は、1095年11月にフランス中部のクレルモン(現・クレルモン=フェラン)で開催されました 。この教会会議は、東ローマ帝国からの援助要請に応えて、教皇が十字軍の派遣を呼びかけたことで有名です 。
教皇は、聖地を異教徒の手から奪還することが神の意志であると説き、十字軍に参加した者は罪が許されると約束しました 。教会会議には約300人の司教や数千人の聖俗諸身分の傍聴者が参集し、教皇の演説に熱狂的に応えました。
深堀します。
教皇ウルバヌス2世の第1回十字軍の呼びかけは、1095年にクレルモン教会会議で行われた演説によって始まりました。ウルバヌス2世は、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世からの援助要請を受けて、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪還することを目的とした軍事遠征を提案しました。
彼はフランス人たちに対して、神のために武器をとるようにと呼びかけ、聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展しました。
これをさらに深堀します。
教皇ウルバヌス2世のクレルモン教会会議は、1095年11月にフランス中部のクレルモン(現・クレルモン=フェラン)で開催されました 。この教会会議は、東ローマ帝国からの援助要請に応えて、教皇が十字軍の派遣を呼びかけました。教皇は、聖地を異教徒の手から奪還することが神の意志であると説き、十字軍に参加した者は罪が許されると約束しました 。教会会議には約300人の司教や数千人の聖俗諸身分の傍聴者が参集し、教皇の演説に熱狂的に応えました。カトリックの正教会は、この遠征に参加することで罪の赦しを得られると信じていました。のちに問題となる免罪符のようなイメージでしょうか。また、正教会との再統合やイスラム勢力への対抗も目指していました。
次に東ローマ帝国とビザンツ帝国の説明が必要ですね。
ビザンツ帝国と東ローマ帝国は、歴史的に同じ国家を指すことが多いです。しかし、両者にはいくつかの違いがあります。ビザンツ帝国は、東ローマ帝国の後期における通称であり、ギリシャ語やキリスト教正教会の影響を強く受けた文化を持っていました。東ローマ帝国は、西ローマ帝国が滅亡した後も存続したローマ帝国の東半分であり、ラテン語やキリスト教カトリック教会の影響を強く受けた文化を持っていました。
東ローマ帝国はキリスト教国でしたが、カトリック教会とは異なる正教会を信仰していました。正教会は、ローマ教皇の権威を否定し、皇帝が最高の教会指導者であると主張し、ローマ教皇の権威を認めませんでした。東ローマ帝国は西欧のカトリック諸国とはしばしば対立し、1054年には両者は相互に破門し教会の分裂(東西教会の分裂)が起こりました。
これをさらに深堀します。
東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世はなぜこのように対立しているウルバヌス2世に援助要請をおこないましたか?
東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世は、1081年に即位したとき、帝国は内外の危機に直面していました。内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受けていました。特に小アジアは大半がセルジューク朝に奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていました 。
このような状況の中で、アレクシオス1世は東方のセルジューク朝に対抗するために、西方のローマ教皇ウルバヌス2世に援助を要請しました。
アレクシオス1世は、ローマ教会との関係を改善し、傭兵や物資を提供してもらうことを期待していました。
しかし、ウルバヌス2世はこの要請を十字軍遠征という形で広く呼びかけ、1096年から始まった第一回十字軍が発生しました。
さらに深堀します。
東ローマ帝国は、1071年のマンジケルトの戦いでセルジューク朝にアナトリア半島を奪われて以来、イスラム教勢力に圧迫されていた。マヌエル1世は、西欧の十字軍を利用してアナトリア半島を奪還しようと考えた。しかし、十字軍は東ローマ帝国の指示に従わず、途中で東ローマ帝国の領土を通過する際に略奪や暴力を行い、アレクシオス1世との関係が悪化しました。特に、ドイツ人十字軍はコンスタンティノープルで暴動を起こしました。
アナトリアの説明が必要ですね
※アナトリア半島とは、アジア大陸の西端に位置する地域で、現在はトルコ共和国の領土となっています。アナトリア半島は古代から多くの文明が栄えた歴史的に重要な場所で、ヒッタイトや東ローマ帝国、オスマン帝国などが支配したことがあります。アナトリア半島の名前は、ギリシア語で「日出る処」を意味する「アナトリコン」という言葉に由来しています。小アジアともいわれる。
※十字軍とビザンツ帝国との間には信頼関係がありませんでした。十字軍はビザンツ帝国を異端とみなし、また略奪や暴力を働く者もいました。ビザンツ帝国も十字軍を野蛮人とみなし、また約束を守らない者もいました。このような不信感や対立が高まっていった中で、1096年から1097年にかけて、ドイツ人十字軍がコンスタンティノープルで暴動を起こしました。
第1回十字軍でドイツ人十字軍がコンスタンティノープルで暴動を起こした理由
第1回十字軍は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動です。しかし、十字軍には騎士や貴族だけでなく、一般民衆も参加しました。彼らは「民衆十字軍」と呼ばれ、ドイツやフランスから東方へ向かいました。
民衆十字軍の中には、ドイツ人の指導者ペーター・フォン・アムィエンスやゴットシャルクといった者がいました。彼らは途中でユダヤ人や正教会の信者を攻撃し、略奪や殺戮を行いました。 1096年8月、彼らは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに到着しましたが、皇帝アレクシオス1世は彼らを歓迎しませんでした。
アレクシオス1世は、教皇から派遣されるという西欧の騎士たちに対して、自分の威信を保ちながら援助を求めていました。しかし、民衆十字軍は無秩序で野蛮な集団であり、アレクシオス1世にとっては迷惑な存在でした。 アレクシオス1世は、彼らを早くエルサレムへ送り出そうとしましたが、彼らはコンスタンティノープルで食料や物資を要求しました。
コンスタンティノープルの住民と民衆十字軍の間には文化的な対立や不信感がありました。正教会とカトリック教会は1054年に分裂しており、互いに異端とみなしていました。 また、民衆十字軍はコンスタンティノープルの豊かさや華やかさに嫉妬や恨みを抱きました。
1096年10月、民衆十字軍の一部がコンスタンティノープルから出発し、小アジアへ渡りましたが、そこでセルジューク朝のイスラム教徒に大敗しました。 残った民衆十字軍はコンスタンティノープルで待機していましたが、食糧不足や退屈から不満が高まりました。
彼らは東ローマ帝国の司令官から市内への立ち入りを拒否され、農村を略奪したり、ベオグラードやニシュといった町と小競り合いを起こしたりしました。また、一部の民衆十字軍はコンスタンティノープルに留まり、市場や教会を荒らしたり、東ローマ帝国の兵士や住民と衝突したりしました。このように、民衆十字軍はコンスタンティノープルで無秩序な行動を繰り返し、東ローマ帝国との関係を悪化させました。
第1回十字軍で1097年4月、騎士たちが率いる本格的な十字軍は、コンスタンティノープルに到着し、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスと会見しました。 皇帝は十字軍に対して、セルジューク朝から奪われた東ローマ帝国の領土を奪還した場合には、それらを帝国に返還するという誓約を求めました。 また、東ローマ帝国の軍隊と協力してアナトリア半島を進むように指示しました。 十字軍の指導者たちは皇帝の要求に応じて誓約を行い、その後、ニカイアへ向かいました。